追悼
2022.11.17
大森一樹監督追悼、「ありがとう、またね」
大森一樹監督が亡くなった。70歳。急性骨髄性白血病だった。病気のことも知らず、今年の初め、3月6日の「おおさかシネマフェスティバル2022」のイベントに来てくれるように頼んだ。「病院に行ったりして体調が少し悪いけど、行けたら行きますよ」という返事だった。毎年同じようなお願いをしており、「行けたら行く」というのがいつもの返事だったのでそんなに気にかけなかったが、今となっては「しまった!」である。おおさかシネフェスの始まりは1976年の「第1回映画ファンのための映画まつり」で、大森監督の16㍉映画『暗くなるまで待てない!』が自主製作賞に選ばれ表彰された。この映画祭は当時学生で自主映画を撮っていた大森くんと、東映京都の若手監督、関本郁夫さん、そして「週刊ファイト」という新聞の記者をしていた私の3人が「大阪でベストテン表彰イベントの映画祭を」と話し合い決めた。それは当初お手盛り映画祭というべきだが、スタッフに大勢の若い映画ファンが集まって盛り上げてくれ盛大に開催された。やがて松竹映画『オレンジロード急行』の監督に抜擢された大森くんは映画祭スタッフとして外れるが、私が実行委員長なら彼は名誉プロデューサーというべきであり、そのまま、シネフェスの象徴的なバックボーンになってもらった。大阪芸術大学の仕事と、映画撮影の現場を行き来する間に間に「最近、映画が難しくなった」とぼやくこともあったが、毎年のシネフェス表彰式冒頭の挨拶では「映画の面白さ」について持論を語り饒舌であった。今年はそれが聞けなかった。それよりも何も、「次は何を撮りたいか。何をやりたいか」について聞いておくべきだった。その時間が返って来ないのが悔しい。来年の「シネフェス2023」は3月5日にホテルエルセラーン大阪で行うようになっている。年明けになって「今年も挨拶、頼むよ」と声をかけると思う。「いやー、僕はもういいよ」と苦笑いし、「仕方ないなあ」と言いながら、彼もやって来るような気がする。大森一樹監督、「ありがとう。またね」。さよならはまだ先にとっておきます。
おおさかシネマフェスティバル実行委員長 高橋 聰